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私が三線を習い始めた頃、偶然図書館で見つけて、自分の稽古への糧となった一文でしたので採録してみました。 |
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金武 良仁 |
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1873(明治6)年5月4日、与那原殿内の支流金武家に生まれ、19歳で安室親雲上に師事、古堅盛保ら少数に伝授し、1936(昭和11)年没。
64歳、レコード吹き込みは、1934(昭和9)年に、かぎやで風、こてい節、諸屯、散山節、述懐節、仲間節、仲村渠節。
1936(昭和11)年に、下げ出し述懐、下げ出し仲風、首里節、暁節、じゃんな節、遊子持節、本花風節他。 |
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1936(昭和11)年5月31日、東京代々木の日本青年館でおこなわれた琉球音楽舞踊団公演の2日目昼の部に金武良仁の独唱のはじまる前、折口信夫が舞台に出てあいさつした。じつは、64歳の金武はその前の日に高熱をだして声がでなくなり、話も手まねでするほどになっていた。そこでこの日の演奏をことわったのだが、折口は肯じなかった。舞台に顔だけ出せ、と注文した。折口は舞台に出てあいさつした。
「そういうわけで声は出ないはずですが、名人の三味線を持った姿でも見てください。」
舞台の袖では医師平良 肇が注射器をにぎってみつめていた。金武は、やおら三味線をかまえて、歌いだした。下げ出し仲風「結ばらぬ片糸の・・・」平常とかわらぬ声が2階のすみまできこえた。が、歌いおわって楽屋にはいると、声が出なくなっていた。平良は「医学では解釈がつきません」といった。
この公演は、それ自体沖縄芸能の名を全国にひろめた歴史的な催しであったが、この機会に金武 良仁の演奏をレコードに録音することが企てられた。伊波普猷が「沖縄のために」と懇請し伊波と比嘉春潮がレコード会社に同行した。録音室のマイクの前にすわった金武は、しばらく瞑目してから三味線をとった。彼の前に伊波がすわっていたが、それにむかって「わたしの前には先生の安室親雲上がすわっておられますから」といった。その厳粛さにうたれて、伊波は席をかえた。 |
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この公演から帰ると、すぐ死の床についた。9月にレコードをきかずに没した。尚順はしきりにそれを惜しみ、かついった。「息切れするところは修練の力で巧みに声をつがせて、むしろ貴重な記録だ。」
金武 良仁は、まさに音楽のために生まれてきたような人であった。8歳のとき、店先で玩具の三味線をとってひきだし、それから彼の「狂気のようだ」といわれるほどの生涯稽古がはじまった。
安富祖政元の弟子安室親雲上を師としたが、28歳から43歳まで師範代をつとめている。日々のけいこは執念そのものであった。毎朝起床後、2〜3曲ひいてから朝食というのがつねであった。ある日、儀保大通りから平良橋まで、ナービナクー(鋳掛屋)のあとを追っていた。ナービナクーのよびかけの発声法を研究していたのであるが、それをのみこんだあと、すぐにまねて実演した。そして、それは「腹底に力をいれて口腔で調節するのだ」と解説した。それは腹圧を抵抗させての稽古であった。音楽そのものを科学的に分析研究することも、こころがけた。師の安室をはだかにして聴診器で胸音、腹音をさぐったりもした。洋楽も和楽も、音楽と名のつくものはなんでも研究の対象にした。男弦と女弦は1オクターブちがいの同音だということを見抜いていたと、のちに尚琳が感心して書いている。三味線楽にはオクターブの理論はむろんなかったはずである。乗馬、園芸、小鳥と自然に親しむ趣味をゆたかにもっていたが、鳴禽の趣味はその音楽とのつながりがあったのではないか。 |
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芸能を世にひろめるというよりは、自らのなかに深くはいりみずからをきびしく鍛えあげるという資質の芸術家であった。祖道の継承に、かんぺきな正確を期した。作田節の歌持ち(前奏)に半年もかかって、師の運指法を学ぶというふうであった。「安室親雲上の歌境にいつ達するか。80の坂をのぼって仲村渠を味わいたい」と述懐していた。その精進が、聞く人を幽境にさそいこむせつせつとした至芸をつくりあげた。芸の神の前に謙虚でありながら、高い誇りを失わなかった。28歳のとき、東京の尚公爵邸で、大隅、徳大寺、西園寺、大倉という貴族豪紳を前に演ずることになったとき、尚順がそばで心配して「だいじょうぶか」ときくと、笑って「歌はわたくしのほうがじょうずなのですから」と答えた。気おくれすることはひとつもなかったが、演奏中大倉喜八郎の指輪の宝石がまばゆくて気になった、とあとで語った。はじめ1〜2曲のつもりが1時間あまりの演奏になった。大隈重信が、はじめはあぐらをかいていたが、演奏の途中でいつのまにか居ずまいを正していた。典型的首里大名の気品があったと、ひとびとはいう。「ナー弦々(ちるぢる)ナータマシダマシ」(1音ごとに魂)というのが、その芸の哲学であった。 |
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※「近代沖縄の人々」琉球新報社編 太平出版社刊 163p〜165p参照。 |
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